愛のイメージ

人間関係において、誰しも「好きな人」とは仲良くできますが、「苦手な人」や「嫌いな人」に対してはどうしても心が波立ってしまうものです。

精神的な学びを深めていく中で、私たちは「博愛(広く平等に愛すること)」の大切さを知ります。しかし、頭では分かっていても、実践するのは容易ではありません。

今回は、この「博愛」について、その段階と、私たちが目指すべき心の在り方について考えてみたいと思います。

博愛における3つの「段階」

一口に「博愛」といっても、その深まりにはいくつかの段階があるように感じます。

1. 感情のままに行動する段階

最初の段階は、まだ知識や意識が十分でない状態です。 好きな人とは笑顔で接することができますが、嫌いな人とは争ったり、避けてしまったりします。その時々の気分や感情のままに行動してしまう段階です。

2. 理屈で理解している段階

次の段階は、知識としてその大切さを理解している状態です。 「皆が博愛の精神を持てば、世の中は平和になる」 「人を愛することは素晴らしい」 と、頭では分かっています。

しかし、良い話を聞いても右から左へ流れてしまい、実際の日々の行動(言動や態度)には結びついていない段階です。知識と行動が分離している状態とも言えます。

3. 理解し、実践しようと努力する段階

理屈を理解した上で、それを実行しようと努力し始める段階です。さらに進めば、無理なく自然と実践できている段階へと続いていきます。

最も高度な博愛と「王道」の進み方

実践できている中にも、さらなる深みがあります。 最終的に目指すべき最も高度な博愛の境地とは、自分が憎くて仕方ない相手、あるいは自分を攻撃してくる「敵」ですら、愛することができる段階ではないでしょうか。

なぜ「経験」が必要なのか

では、どうすればその境地に近づけるのでしょうか? 私は、そのための王道は「経験」にあると考えています。

机上の空論だけでは、人の心は分かりません。実際に自分自身が様々な経験(喜びも、悲しみも、痛みも)を積まなければ、様々な立場の人間の気持ちを真に理解することはできません。

「相手の立場に立って考え、受け入れる」 これは、豊富な経験という土台があって初めて可能になることだと思うのです。

せっかくこの世に生を受けたのですから、恐れずに様々な事柄に積極的に関わり、経験を積み重ねていくこと。そして、そこで出会う人々を愛することができるよう努力を続けること。これこそが、魂を磨き、博愛の念を深めるための「王道」ではないでしょうか。

先人たちが説く「愛」の教え

古今東西の聖賢たちも、表現は違えど同じ真理を説いています。

「あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起こすべし。」

(釈迦、スッタニパータ149)

「隣人を自分のように愛しなさい。」

(イエス、マタイ22-37)

「愛の最高の表現は己れを思わず、報酬を求めず、温かさすら伴わずに、全てのものを愛することができることです。」

(シルバーバーチの霊訓(一)p146)

今年も残りわずかとなりました。 来年もこのような心持ちで過ごし、少しでも大きな成長が遂げられるよう、一日一日を大切に努めていきたいものです。


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