今年もとうとうあとひと月になりましたがお元気にお過ごしでしょうか?
今回は、霊査(スピリチュアルカウンセリング)について、個人的な見解を述べてみたいと思います。
スピリチュアリズムを学んでいる人の中には、霊査など取るに足らないものだという意見もあるようですが、霊査の価値についてはどのように考えれば良いでしょうか?
分かりやすいように具体例を挙げて考えてみます。
以下は聖書からの抜粋です。
「この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」・・・「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
(ヨハネ8-4)
イエスが降誕された時代は、寡婦は、貧しさから生きるために売春などをするしかなかったわけですが、そのような人を石打の刑にしていたようです。
上記は、イエスが民衆の注目を集めたために、嫉妬した律法学者が、イエスを貶めようとしてイエスに投げかけた言葉とイエスの回答です。
この言葉を聞いた民衆は、結局、誰も娼婦に石を投げられずに去っていったと記されていますが、イエスの返答は見事だと思いますし、その中に、「許し」の教え、叡智が含まれているように感じられます。
スピリチュアリズムでは、この箇所は、イエスが霊界からのインスピレーションを得て、高度な思想を述べたものだと解釈されると思いますが、つまりはこれが「霊査」であると言えると思います。
一方で、占い師の中には、不倫の相談に乗っているような方もいらっしゃると思いますが、やはり、そのような事をしていては、人に迷惑をかけるだけで、良い結果を生まないように思われます。
しかしこれも、霊能力を使っており、霊界からのインスピレーションを受けているのであれば、「霊査」であると言えるわけです。
このように考えれば、霊査は霊査でも、前者と後者では、価値が全く異なるように思われます。
結局のところ、霊査というものは、それ自体が、取るに足らないものでも、神のお告げのように価値のあるものでもなく、価値の高さは、カウンセラーとクライアントによって決まるということになるのではないかと思います。
それなりの階層に繋がっていると思われれば、述べている事が、思想的、哲学的に価値あるものだと判断できれば、霊査の内容をしっかりと心に受け止めて、日常生活に活かしていくという事は、重要な事のように感じられます。
「汝自身を知れ」という言葉がありますが、どんなに優れた聖人君子の様な人間でも、自分のことは自分にはなかなか理解できていないことがあるように思います。
そう考えれば、霊査の価値は深く理解できるのではないでしょうか?
それでは、12月の例会の案内をします。
今年最後の学びの日、今年一年の振り返りの日ととらえて、お忙しいとは思いますが、是非とも足を運んでください。
例会の後には、忘年会を予定しています。
皆さんで楽しく語り合いましょう。
記
一 期日 令和6年12月22日(日)
二 場所 正友ビル(福岡県福岡市中央区天神4丁目5−20)
三 行事
10:00~11:30 読書会(参考書:シルバーバーチは語る)
個人相談(担当 龍英一郎)
13:00~14:30 精神統一会・霊査(担当 龍英一郎)
14:30~16:00 ワークショップ
16:00~17:00 役員会
17:00~19:00 忘年会(3000円程度)
四 費用 例会参加費 会員2000円、非会員3000円
個人相談料 会員3000円、非会員4000円
(会員料金での参加ご希望の方は、会員証をお持ちください。)
以上
九州和の会 事務局 白壁 正幸